銀輪旅人 イーハトーブの風

ランドナー乗りの きままな日記

昔話

旅先 とんでもないところで寝る羽目になった!ってこと ありませんか?

今だと 駅やバス停の待合室や 公園の東屋 学校の玄関先で寝るなんて とんでもないことです。
すぐに 警察に通報されてしまうかもしれません。
でも 私が学生だった 40年くらい前までは わりと 平気でやっていました。(確かに無賃宿泊)

無賃旅行と 揶揄された 自転車旅! 
ほんとに そういう無賃に近い旅をしている人も 中にはいたかも・・・ 
そもそも 旅ではなく 修行であったり 放浪だったり 逃避行であったりする人も いたかもしれません。

バイクの人
ボロボロ自転車に乗っている人
リヤカー引いてる人
ママチャリに買い物カゴで 荷物満載って人
バックパッカーが流行っていたので そういう人
でも 
私は 自転車で旅がしたい人 でした
 だって サイクリストだもの! そういう自覚と自負はありましたね~


話を戻して・・・ とんでもないところで寝た ベスト?3 に行ってみよう!
国鉄の駅舎の待合所のベンチでは もう 何泊したのかわからないくらい 利用させていただきました。 駅員さんも 親切で 文句言われることは ほとんど無かったです。たまに 締め切りの駅舎や 暴力沙汰のあったところでは 宿泊を禁止されて追い出されることはありました。

ベスト3は 信州の無人駅 フォームにあるベンチで 寝袋に入って寝ていると 何やら 羽音で目が覚めました。 無人なうえに 周りに何もない山の中 どこの駅だったか駅名は忘れてしまいましたが、 なんもないところです。
真っ暗な周りに 電灯が真上に一つあったのですが・・・羽音は その電灯の明かりに引き寄せられた蛾の大群でした。
 壁と天井 ベンチと 床まで 蛾がびっしり! 「ひぃ~~っ」と 声にならない声を出して 寝袋から脱出 

ベスト2 墓地公園の東屋
お盆前の日くらいでしょうか テントの張り場をさがして 公園がないか探している時に、「それなら
この先に 公園があるよ」と 地元の人におしえてもらい 行ったら なんと 公園は公園でも 墓地公園! 玉砂利が敷いてある参道があって その奥に墓地やら 焼き場やら 
もう日が暮れるというときなので 迷いもなく その公園へ行きました。 東屋があったので そこで飯を作り 一杯ビールをいただき・・・すぐに眠りにつきます。
夜中の12時少し回ったあたりで 玉砂利を踏む音が遠くから聞こえて 目を覚ましました。
足音は こちらに近づいてきます。 「お盆だし お参りにくるのかな?」と寝袋に入って、通り過ぎるのを待っていましたが なんと すぐわきで 足音がやんで・・・
「いや~ 怖~~」って 
寝袋のまま 起き上がったら 「うわッ~~」ってすごい声をだして 駆け出して戻る人影が・・・
なんか 悪いことした?のかも・・・

ベスト1 宮沢賢治の碑の前
宮沢賢治についていろいろ調べていたので 東北に来たら いろいろ周ろうと。
雫石の小岩井農場で泊まった時 夜中は手元さえ見えないくらい真っ暗で 星も出ていなくて 足元が見えない。 歩いているのに その場で足踏みしている感じ。真の暗闇とは こういうのをいうのだなぁ~ って思いました。 翌日は 宮沢賢治の碑があるところで テントを張りました。 この碑には遺髪が納められているというようなことが かかれていたように思います。
真夜中の零時をすぎたころ 遠くから 足音が聞こえてきました。 碑があるだけで 周りに何もないところです。 足音は 碑の前で止まりました。 
それきり 足音は 帰って行くことなく ずっと静かなまま・・・おかげで 朝まで 一睡もできずです。明るくなってから 見回しましたが 何も変わったことはありませんでした。

番外編
春の阿蘇 九州の春 暖かいだろうなんて 思ったら大間違いで・・・
3月に阿蘇山の麓から 走りだして とちゅうにあるキャンプ場で泊るつもりでやってきたのですが・・・ 走っている最中から 寒くて なんと ボトルの水が凍り始めて シャカシャカ いい出しました。 本州の冬でも こんなことは 経験したことなかったので ちょっと驚きました。
キャンプ場についたら・・・ありゃ~ やってない! 閉鎖されていて 人っ子一人いません。
仕方なく 空地でキャンプしました。 寝袋を2枚重ねて寝たのですが あまりにも寒い 
やっと明るくなり テントの中見ると 結露で 寝袋がビッショリ濡れていました。いまなら ゴアテックスのシュラフカバー とか あるでしょうけれど(これがまた 高い! シュラフより高価)
もってるわけないので 夏用をインナーにして 3シーズンシュラフを2重にして使っていたのです。
結露でこんなになるとは その時思っても見ませんでした。

標高3000mで 台風が通過
槍の肩の山小屋で泊った時 なんと 台風が接近 夜中に通過して行きました。
8月の盛夏でしたが 気温がぐんぐん下がり 氷点下に。
とにかく寒くて あるもの全部着込んで寝ました。 
翌日は 一変して快晴でした。

四国の浜辺でキャンプ
旅先でよく遇う友人(雨男)と四国の浜辺でキャンプしたとき、神社が近くにあったのですが、
その神木とみられる大木に なんと 藁人形が・・・ 藁の人形には 男の写真が重ねられていて 五寸釘が ボッコボコにうちこまれていて 顔もわからない・・・がありました。
雨男の友人は とても怖がりで その手の話をすると 耳を塞いで「なんも 聞こえん なんも 聞いてない」と いうありさまなんです。 藁人形の話をすると たぶん キャンプ地を変える と言い出すので、 翌朝まで 黙っていました。 朝飯たべながら 藁人形の話をすると 雨男の友人は 固まってしまい・・・ なんも き い と ら ん ぞ ~ と 完全にフリーズしていました。

他にも 潮が満ちて テントが流されそうになったり 
海岸でキャンプしたら 朝 周りに人がいっぱいでびっくり しかも トイレが無くて フライを被って 用を足した 話 なんか ありますが・・・ 思い出したら 第二段 もあるかも


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旅先で 「美味い物 食った」 って記憶は 残念ながら あまり無い。

無いのは 自炊が基本だから・・・・自転車旅は 無賃旅行と言われたが・・・
無一文で旅行っていうのは ありえない しかし 潤沢な資金があるわけでもないので・・・・ 
そうそう うまいものにありつけないのは 当たり前。

だいたい 1日 ビール代を差し引いて 500円くらいしか 資金が無かったと思う。
(ビールといっても ホップスとか ビール飲料がではじめたころで これで十分でした)
1000円した 礼文島のうに丼は 涙( ;∀;) 食べることできなかった。
1食に 1000円は さすがに ・・・ 旅のはじめのほうだと 余計に使えない。

旅行の最終で クラブ合宿があるので その費用はのこしておかないといけないから 使い込んでしまうわけには 行かなかった。 いまなら 「ちょっと カードで!」 ってなるだろうけれど。
当時は 郵便貯金で 各地の郵便局で 少しずつ 引き出して使っていた。
郵便局って 僻地でも 奥地でも どこにでもあるから 安心でした。

自炊は、 米飯が基本 朝夕2回 または 夕方1回 作る
私のコッヘルは 2合炊けるので 朝夕だと 4合も焚いている。
いま 5人家族で 朝夕 2合ずつ焚いているのだけれど・・・一人で これを食っていた。
(サドルバッグは 米櫃でした。 当時出始めた 無洗米が楽で良かった!)

おかずは 朝だと ふりかけ 缶詰 納豆 生卵 :味噌汁・スープ(即席)漬物 :トマト(生)
といったところ。 シーチキンマヨネーズだけで けっこう食える。
昼は 即席ラーメン類に を入れて食べる。 
腹が減ったら パンの耳をかじって ひもじいのに耐える。

夜は ビール500ml1本 これ必須! 
米飯 :おかずは カレー・クリームシチュー・豚汁(ジャガイモ ニンジン 肉と具は一緒)
米飯じゃない時は スパゲティ(パスタソースをかけるだけ) または うどん(具だくさん)
あとは 冷ヤッコ たまに お刺身(生魚が無性に食いたくなる時がある)丸美屋のマーボー豆腐
生野菜は トマトを丸かじりしてました。

当時 それほど 料理ができたわけではないので これで 1ヶ月ほどローテーションする。
たまに YHで栄養補給して・・・天ぷらとかでると うれしかったな~
(カレーが出てきたときは けっこう がっかりする。自分で作れるのは うれしくないのだ といいながら 5杯くらいお替りするので 周りが奇異の目で見てました)

YHの朝食が 食パンだと 何枚食ったら 腹が膨れるのか?わからず 
4~5枚食っても 朝のパンは 腹持ちしないので困った。(ご飯と違い お腹に入らない)
いまでも 朝は ご飯でないと ダメな私です。 

そんなわけで あまり 外食しなかったのです。 ご当地グルメとか いっさい食べる機会もなかったのですが・・・それでも これは 食っておけ! って言われて 食べたものもあります。
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盛岡のわんこ蕎麦 
盛岡駅で休憩していたら、話しかけてくる高校生くらいの男の子 
実は 家出中だとか・・・ なんでも 「わんこ蕎麦を食べたいのだが・・・一人では行けないので 
一緒に行ってくれない?」 と なんかよくわからんけど 「いいよ~」って 
当時 1000円くらいしたので ちょっと躊躇していたのだけれど 背中をおされてしまいました。
意外と食べられず・・・100杯は 行かなかった! 隣の お姉ちゃんに負けたのが悔しかった。
家出少年とは そこでお別れ! 今頃どうしているのか?

羅臼のルイベ
ルイベというのは 凍った肉や刺身のこと。
知床で一緒になった連中と 食べてみることになりました。
トド肉やらも食べましたが・・・味も臭いも凍っていて よくわからなかった。
トド肉って 結構臭いがするらしいのです。

戸隠の蕎麦
これは 間違いなく 美味かった!
ついでに
そばがきなるものを 初めて食べました。
これは よくわからん 味でした。蕎麦初心者には ちょっとハードルが高い。
(家族亭の 十割蕎麦もすきです) 当時はまだ うどん派でしたので その後 超蕎麦派に
いまは 両方とも 大好きです。

津和野のしろうお 踊り食い
合宿で行った 萩・津和野で みんなでおっかなびっくりで 踊り食いしました。
人間って残酷だな~とか言いながら 味わう暇もなく お腹の中へ 

長崎 福砂屋のカステラのへた
こうもりの絵で有名な 福砂屋のカステラ ですが なんと ヘタ だけでも買えるのです。
甘いの苦手なので たくさん食べられないから  ヘタで十分でした!

いま グルメ旅とか 羨ましすぎる旅行スタイルがありますが 当時の自分には まったくもって無理でした。 とにかく 安くて栄養あるもの を食べて 走る!だけでした。



飲食を 車のガソリンに例えますが  自転車でも 長旅だと まさに ガソリン!
入れた分しか 走らない! 状態になって行きます。
ガソリン状態になるのは きまって4~5日目くらい。 3日目くらいから 旅の疲労がでてくるのだが
まだ 無理は利く。ため込んだ栄養を エネルギーに変えているからだ。
しかし 4~5日目くらいから 
食った分のエネルギーが 即 運動エネルギーなのだ! そして・・・
空腹になったとたんに エンストする。

霧多布で食った 寿司10人前 これは 御馳走の部類に入る! なんと1人前の料金でした!
最後のほうになると キュウリまるまる1本入った カッパ やら でかい刺身の乗った寿司がでてくるのでした。 店の親父いわく 「バイクの連中は それほど食わんのだが 自転車の連中は 平気で10人前食べるので 困ったものだ~」と・・・ 


合宿飯
夏合宿は 5~7日くらい走るのですが 宿泊が2回ほどあります。
とまる旅館には 合宿担当者が「一人2合 晩飯には食いますから!」と言っています。
たまに 旅館側が信用せずに・・・(ご飯が余ると困るのでしょうね)一般客並みにしか ご飯の用意が無かったため 晩飯が始まってすぐに 空の御櫃続出! 仲居さんに ご飯の追加を頼んでえらいこちゃの 大騒ぎになります。 私もよく食べましたが 先輩と同輩に バケモンが2人いました。


旅から帰ってきたら・・・あらびっくり 手足胸の筋肉は がっちり ムキムキなのに・・・
お腹だけ ポッコリです。 「これって 胃拡張!?  カッコ悪~~~」 

しばらく お腹がやけに減る日々を過ごして(大食いが当たり前でしたから)2週間ほどかけて 
 やっと 平常にもどります。
あとは 手の甲にできた 日の丸焼け 
これは (ツーリンググローブの跡)は 秋まで取れませんでしたね~ 
旅の勲章でした!


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昔話も4話目 

富士山に登った話
大学2回生のころ
学生会館と呼ばれる 部室棟2階に サイクリングクラブの部室があった。

部室というのは 維持するために いろいろ しないといけない。(入れ替わりもあるので)
サイクリングクラブは 1クラブで 1部室なのだが 実績のないクラブは 2~3クラブで1室というのが多かった。 
うちのクラブは 先輩方の活動と実績が認められていた?ので 部室は安泰でした。
なかでも 文化活動として 写真展をよくしました。
旅先の写真を 引き伸ばしてパネルにして展示。
写真好きの先輩と 私と 暇を持て余した連中で 部室を暗室にして夜中に写真を引き伸ばして焼き
ました。 現像すると 心霊写真風の画像が出てきて 皆で 「エキトプラズマじゃ~~」って
大騒ぎしたものです。
今でも 定着液の酸っぱい臭いが思い出されて 鼻の奥がムズムズします。

他には 他大学との合同イベントや 一般人向けのイベント、サイクル運動会 サイクルオリエンテーリング 学祭の行事参加など。 
中でも 部独自の活動が 実績評価に一番大事で 数年に一回 大きなイベントをしていました。
神戸~山口ノンストップラン」 毎年の「敦賀~神戸250Km耐久ラン」 「紀伊半島一周ラン」 など 自転車を使ったイベント活動です。
私が2回生になった時 一度挑戦したかった 富士登山ラン をクラブイベントですることになりました。 下見は 私と 高校で登山部だった後輩と2人で 山開き前に登りました。途中雪が降ってとても寒かったです。 本番まで 1ヶ月ほど アタック隊(自転車担いで登る隊員)と サポート隊にわかれて体力トレーニングしたりしました。 この様子は 朝日新聞神戸新聞にも取り上げてもらいました。 
そして 本番(山開き前です)
アタック隊は 電車で御殿場駅まで行き、そこからは 自走でスバルラインを 富士山5合目まで走ります。 それから 高山に馴れるために 1泊しました。
ここで バスで登ってきた サポート隊と合流です。 
翌日 快晴の朝をむかえました。 円陣をくんで エール
山頂めざして 登り始めます。
7合目くらいまでは わりと余裕でしたが 8合目 9合目になると 息が上がってしまいます。
山頂ちかくになると 3分動いて 3分休み・・・ やっとの思いで 山頂の御鉢にでました。 剣が峰には 御鉢巡りで行きます。 まだ このころにはレーダードームがありました。剣が峰に立つと 伊豆半島がくっきり見えました。さすがに富士山 独立峰ですから ながめがいいです~
遠くに残雪の日本アルプスの峰々が 神々しく輝いています。 
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御鉢巡りで 剣が峰をめざす 後ろは噴火口 左端が私です

サポート隊は 8合目でアタック隊と別れ 山頂まで登らず 引き返して 5合目へ向かったのでした。そして バスに乗って 御殿場で再合流の予定でした。 

一方われわれ アタック隊は 剣が峰から ブルドーザー道を下り御殿場に向かいます。
ブルドーザー道は 砂(軽石)が深くて タイヤが20cmくらい沈みこんでしまいます。
この当時 まだ マウンテンバイクは 一般には浸透していませんし 私たちも この時は 全員ガードを外した ランドナー (私は クライマー)タイヤは 650x38B か 42B でした。
沈み込んだ車輪を スキーのように滑らせてジグザグに降りて行くのですが 時々 砂にはまり込んで
前転してすっ飛びました。 着地しても 砂なので 痛くないものですから 皆面白がって すっ飛びならが 下りました。宝永山を横に見ながら下ったの景色は頭に焼き付いています。
自衛隊基地の横を通り あっという間に下って 集合場所の御殿場に到着しました。
登りは 2日かかりましたが 下りは 2時間半ほどでした。

アタック隊にトラブル?
後で聞いて 「なんじゃそりゃ~」って 笑い話になるのですが・・・
当時は 携帯電話はありませんから 一応 連絡用に トランシーバーを用意しておいたのです。
部員同士が トランシーバーで おしゃべりしすぎて 電池切れ
おまけに 学校本部にいた部員と連絡しあって アタック隊の 御殿場到着を知らせてあったのに
5合目に残って サポーター隊の中継をする連中が いたずら電話を頻繁に掛けたらしくて 神戸の本部にいた部員が呆れて帰ってしまうことに。
 まずいことに アタック隊の御殿場到着の連絡が 富士5合目に着いたサポーター隊に伝わらないまま時間が過ぎてしまいました。
 
天候が悪くなってきたのもあり サポーター隊の連中が アタック隊の心配を始めてしまいます。
一方我々は 本部に到着の連絡をしたこともあり 御殿場駅でアイスを食ったりして のんびり皆の帰りを待っていたのでした。

サポーター隊の連中が 幻聴を聞く・・・
まずいことは 重なります。
女性部員が 「アタック隊の声が聞こえた」とか いい出したそうで・・・ちょっとしたパニックになったようです。
山は やはり 舐めてはいかんです。 富士山も舐めてはいけません。
登山経験者が わたしと下見した後輩君くらいしかいなかったのもまずいです。
 
本部にいた部員が 何かの拍子で 連絡がつくまで このパニックは続いたようです。

なんも知らない 私ら5人は待てど暮らせど 連中が帰ってこないので・・・
本部に再連絡 誰も出ない・・・ 自宅に電話すると なんと 本部にいるはずの部員がでてきて 顛末がわかったという次第です。
なんだか知らないうちに とんでもないことになりました・・・とさ!

 サポーター隊と再会した時は どえりゃ~ことになりました。 
今でも 当時のクラブ員が集まると この話で 大いに笑います。
 
富士山は いまでは 世界自然遺産 じゃなくて なぜか 文化遺産ですから 自転車担いでの富士登山は ちょっと無理でしょう。
バイクで登ったって話もありますが こちらは 問題外ですね。

こうして2日間で 獲得標高差 7200m!の 富士登山イベントは終了しました。


携帯電話のなかったころは ほんとに ちょっとしたことでも 行き違いがありましたね~ 
そう言えば 30年前 わたしも のちに妻となる彼女とのデートで 待ち合わせ場所で2時間も待たされたことがありました。 携帯電話のある今じゃ 考えられない ことです。
心配して 電話するのですが 全然誰も出なくて・・・
やっとのことで 彼女の家に電話がつながり お母さんが出て「○○は 部屋で寝てますよ~」って!
「えっ・・・・」? ?????が続くよ どこまでも~ 
「とりあえず 無事でよかった~」って。
やってくれますね~ うちの嫁は!  (このあと 平謝りの嫁さんでした)
ケンカ別れしなかったので 今も一緒にくらしています。

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昔話 三の巻

スポーツ自転車に乗り始めたのは 16歳 高校1年
兄のお古(といっても 綺麗なまま 輪行袋に入っていた アルプス・クイックエース)をもらったことから始まった。 (新しいもの好きの2番目の兄は ちょっと飽き性だった。 このあと エアライフルをやっていた。 自転車は体力的にしんどかったようだ)
お陰で 最初の一台から アルプス というツーリング車に乗れることになったのだから感謝しかない。
乗り始めたころはまだ チビだったので サドルを一番下げた状態でしか 脚が届かない状態で、 1年後にやっと 現在の身長ちかくなり まともに乗れるようになりました。(今でも大きくないですが) (この自転車 未だに 現役で乗っていますし・・・) 

東海道五十三次を走りたい!
高校2年生の夏休みに 一人 東京へ輪行して出かけました。
東京駅の片隅で組立てて 日本橋の銘板のまえに立って 「ここが 東海道五十三次の出発地か~」と 感慨にふけっていたら 警官が寄ってきて 「こら~ ここは自転車通行禁止!」って 怒られた。 
しかたなく 自転車を押して旅にでた。
東京を出て 初っ端から 道に迷った。 西に向かっているはずが いつの間にか 東京へ戻る道へはいっていたりで前途多難って感じでした・・・

東海道を旅の1番に選んだのは 家に飾ってあった 永谷園のおまけの 東海道五十三次カード がきっかけでしょうか。 毎日眺めていたので・・・自分の脚で 旧東海道を走って こんな景色を拝んでみたいと・・・
ちょうど歴史に興味を持ち始めたのも このころで 司馬遼太郎や新田次郎の歴史小説を読むようになって ますます 旧道に関心を持つようになりました。

行ってみると 当たり前ですが 昔の風情も面影も 有った物ではありません。
ほぼ国道1号線を 時々脇道で旧道を 通り ひたすら 京都三条大橋を目指します。
箱根の峠を越えて なんとか 一安心した記憶があります。
泊まりは 橋の下(富士川)で一夜を明かしたり YH(小夜の中山)泊まったり テント泊しました。 

東京~京都間 約500キロ 初の遠出・泊まりサイクリング 
一日に走る距離は大したことはなく 100キロほどで計画したので 
4泊5日で京都にたどり着きました。
京都から 大阪の家まで さらにあと30キロ 
(走り切った感がある後なので・・・気力がどうしてもなくなって さらに・・・) 
途中 お腹を壊して 喫茶店でトイレを借りた記憶があります。
フラフラで 家にたどり着いたのですが 親には そんな姿見せられないので 虚栄を張って 元気いっぱいに 「ただいま」を言ったのでした。

当時の国道1号 大型トラックにトレーラーが大量に走っていて ほんとに怖かったです。
あと 走っていると 並走して応援してくれるサイクリストがいたり、休憩していると お茶やお菓子をだして世話を焼いてくれる人がいたりで 
旅にでて 人の情けにふれて感動するという経験 をしてしまいました。 
これを経験すると やめられなくなるという奴です。 
しんどいだけで終わっていたら 今頃自転車には乗っていなかったのかもしれませんね~ 


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昔話 二の巻

蛍のお宿
大学1年の夏 福島猪苗代湖発での 初の夏合宿があるので そこまで自走していく途中の話
下北半島で 一夜の宿・民家の庭でテントを張らせていただいたことがあるのだが、
奥さんは 大阪枚方(ひらかた)出身だということでした。 
私は隣の茨木市ですから 「懐かしい大阪弁が聞けた」と喜んでいただけました。
(話をしただけで これだけ喜んでいただけるとは・・・)(私も 青森弁がまったく聞き分けできないなかでしたから お互い様でしょうか)
夜中になると 庭の片隅にが 舞い 舞い すご~~い 事になりました。 
(蛍の 乱舞ってこれか~~)
翌日 大間崎まで北上するのですが・・・未舗装の酷道を 猿が見つめる中 
パンク頻発でしたが・・・走りました。 
途中の仏が浦は ほんとにあの世に見えました!
(この話は 時々していますが タイヤの黒い部分がどんどん剥がれて ボウズタイヤになって しかも ダートは半端ない凸凹道。 持っていたパッチはどんどん無くなって行きました) 

大学同期のSは とにかく雨男
彼の上にだけ雨雲が湧いているのを見た!という証言が数多あるくらいすごい 雨男なんですが、 
ドジもいっぱいあって 峠で休憩して 気持ちよく下っていくと「ちょっとまった~」って 声がかかります。
「何事 パンク?」「いや デイパック峠に忘れた・・・とりにいってくるわ!」 峠に物をおいたまま 下ってしまった事件(2度くらいやってますね~ 輪行バッグだけおろして 網棚のデイパックを忘れたってこともあった)
Sの逸話は 山ほどあるのですが・・・おいといて
ちょっといい話です 
ソロで北海道を走っていた時の話です。

北の大地の真ん中で!
小樽に上陸してからもう10日以上たちます。北上して天売焼尻島 宗谷岬 礼文利尻島 名寄経由で 紋別 サロマ湖 網走を経て 屈斜路湖
摩周湖の展望台を登り 釧路目指して南下 弟子屈町内の 真っすぐな道路を走っている時の事です。
何台か 自転車 バイクとはすれ違い お互い ピースや ガッツポーズしたり スペシウム光線(バイクのやつがやっていた)挨拶を交わしていました。
前方から 一台 キャンピングが来るのが見えて (直線だから 随分とおくにいても見える)どんどん近づいてくる。 「なんか みたことあるぞ」
向こうも わかったようで 盛んに手を振っている。 
北の大地の真ん中で 雨男のS と偶然出会った。 
(すれ違っただけなんですが・・・)
合宿まで まだ1週間ほどあるので お互い好きなところを走っている最中です。
 集合地で会おうと 別れました。 
(合宿は初日からの連日雨で Sは先輩女子にさんざん責められていました)かわいそうに・・・


Sとは 縁があるようで 九州を走ったときも・・・
宮崎県 高千穂で また顔を合わせました。
ソロで九州を走っていた 春合宿前のフリーラン 
宮崎県 高千穂狭へやってきました。 ボートに乗って 天岩戸神社を参拝しました。
向うから 来るボート一艘 オールを上げて叫んでいる奴がいる。
なんと Sでした。
神秘的な風景の中 「また会ったな~」と 

そいえば 大学の初の旅はこのSと二人 青春18きっぷで 2日かけて
秋田県大館駅までの輪行でした。
(運悪く 1日目は 台風の影響で 酒田駅で運行中止になったりしました)
北上するたびに 駅そばの汁の色が濃くなっていく様をみたり、
秋田に近づくと 美人の割合がほんとに増えたといった たわいもないことを言いながら。
1日 一緒に走り 彼は 東に 私は 北に進路を取りました。
夏合宿まで2週間前です。

S君はすっかり 髪の毛が無くなって・・・(孫にむしられた?)
同期の中で 一番結婚が早くて、 一昨年 孫が生まれて 名実ともおじいちゃんになりました。
関東に根を下ろしたので 数年に1回しか会えませんが、そん時は 昔話で 腹がよじれるくらい笑いあえます。 


昔話するようになったら ちょっと やばいとか いいますが・・・ 
旅ばな 面白かったら 幸いです! とりとめのない話ばかりですけれど・・・

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