昔話も4話目
富士山に登った話
大学2回生のころ
学生会館と呼ばれる 部室棟2階に サイクリングクラブの部室があった。
部室というのは 維持するために いろいろ しないといけない。(入れ替わりもあるので)
サイクリングクラブは 1クラブで 1部室なのだが 実績のないクラブは 2~3クラブで1室というのが多かった。
うちのクラブは 先輩方の活動と実績が認められていた?ので 部室は安泰でした。
なかでも 文化活動として 写真展をよくしました。
旅先の写真を 引き伸ばしてパネルにして展示。
写真好きの先輩と 私と 暇を持て余した連中で 部室を暗室にして夜中に写真を引き伸ばして焼き
ました。 現像すると 心霊写真風の画像が出てきて 皆で 「エキトプラズマじゃ~~」って
大騒ぎしたものです。
今でも 定着液の酸っぱい臭いが思い出されて 鼻の奥がムズムズします。
他には 他大学との合同イベントや 一般人向けのイベント、サイクル運動会 サイクルオリエンテーリング 学祭の行事参加など。
中でも 部独自の活動が 実績評価に一番大事で 数年に一回 大きなイベントをしていました。
「神戸~山口ノンストップラン」 毎年の「敦賀~神戸250Km耐久ラン」 「紀伊半島一周ラン」 など 自転車を使ったイベント活動です。
私が2回生になった時 一度挑戦したかった 富士登山ラン をクラブイベントですることになりました。 下見は 私と 高校で登山部だった後輩と2人で 山開き前に登りました。途中雪が降ってとても寒かったです。 本番まで 1ヶ月ほど アタック隊(自転車担いで登る隊員)と サポート隊にわかれて体力トレーニングしたりしました。 この様子は 朝日新聞や神戸新聞にも取り上げてもらいました。
そして 本番(山開き前です)
アタック隊は 電車で御殿場駅まで行き、そこからは 自走でスバルラインを 富士山5合目まで走ります。 それから 高山に馴れるために 1泊しました。
ここで バスで登ってきた サポート隊と合流です。
翌日 快晴の朝をむかえました。 円陣をくんで エール
山頂めざして 登り始めます。
7合目くらいまでは わりと余裕でしたが 8合目 9合目になると 息が上がってしまいます。
山頂ちかくになると 3分動いて 3分休み・・・ やっとの思いで 山頂の御鉢にでました。 剣が峰には 御鉢巡りで行きます。 まだ このころにはレーダードームがありました。剣が峰に立つと 伊豆半島がくっきり見えました。さすがに富士山 独立峰ですから ながめがいいです~
遠くに残雪の日本アルプスの峰々が 神々しく輝いています。
一方われわれ アタック隊は 剣が峰から ブルドーザー道を下り御殿場に向かいます。
ブルドーザー道は 砂(軽石)が深くて タイヤが20cmくらい沈みこんでしまいます。
この当時 まだ マウンテンバイクは 一般には浸透していませんし 私たちも この時は 全員ガードを外した ランドナー (私は クライマー)タイヤは 650x38B か 42B でした。
沈み込んだ車輪を スキーのように滑らせてジグザグに降りて行くのですが 時々 砂にはまり込んで
前転してすっ飛びました。 着地しても 砂なので 痛くないものですから 皆面白がって すっ飛びならが 下りました。宝永山を横に見ながら下ったの景色は頭に焼き付いています。
自衛隊基地の横を通り あっという間に下って 集合場所の御殿場に到着しました。
登りは 2日かかりましたが 下りは 2時間半ほどでした。
アタック隊にトラブル?
後で聞いて 「なんじゃそりゃ~」って 笑い話になるのですが・・・
当時は 携帯電話はありませんから 一応 連絡用に トランシーバーを用意しておいたのです。
部員同士が トランシーバーで おしゃべりしすぎて 電池切れ
おまけに 学校本部にいた部員と連絡しあって アタック隊の 御殿場到着を知らせてあったのに
5合目に残って サポーター隊の中継をする連中が いたずら電話を頻繁に掛けたらしくて 神戸の本部にいた部員が呆れて帰ってしまうことに。
まずいことに アタック隊の御殿場到着の連絡が 富士5合目に着いたサポーター隊に伝わらないまま時間が過ぎてしまいました。
天候が悪くなってきたのもあり サポーター隊の連中が アタック隊の心配を始めてしまいます。
一方我々は 本部に到着の連絡をしたこともあり 御殿場駅でアイスを食ったりして のんびり皆の帰りを待っていたのでした。
サポーター隊の連中が 幻聴を聞く・・・
まずいことは 重なります。
女性部員が 「アタック隊の声が聞こえた」とか いい出したそうで・・・ちょっとしたパニックになったようです。
山は やはり 舐めてはいかんです。 富士山も舐めてはいけません。
登山経験者が わたしと下見した後輩君くらいしかいなかったのもまずいです。
本部にいた部員が 何かの拍子で 連絡がつくまで このパニックは続いたようです。
なんも知らない 私ら5人は待てど暮らせど 連中が帰ってこないので・・・
本部に再連絡 誰も出ない・・・ 自宅に電話すると なんと 本部にいるはずの部員がでてきて 顛末がわかったという次第です。
なんだか知らないうちに とんでもないことになりました・・・とさ!
サポーター隊と再会した時は どえりゃ~ことになりました。
今でも 当時のクラブ員が集まると この話で 大いに笑います。
富士山は いまでは 世界自然遺産 じゃなくて なぜか 文化遺産ですから 自転車担いでの富士登山は ちょっと無理でしょう。
バイクで登ったって話もありますが こちらは 問題外ですね。
こうして2日間で 獲得標高差 7200m!の 富士登山イベントは終了しました。
携帯電話のなかったころは ほんとに ちょっとしたことでも 行き違いがありましたね~
そう言えば 30年前 わたしも のちに妻となる彼女とのデートで 待ち合わせ場所で2時間も待たされたことがありました。 携帯電話のある今じゃ 考えられない ことです。
心配して 電話するのですが 全然誰も出なくて・・・
やっとのことで 彼女の家に電話がつながり お母さんが出て「○○は 部屋で寝てますよ~」って!
「えっ・・・・」? ?????が続くよ どこまでも~
「とりあえず 無事でよかった~」って。
やってくれますね~ うちの嫁は! (このあと 平謝りの嫁さんでした)
ケンカ別れしなかったので 今も一緒にくらしています。
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富士山に登った話
大学2回生のころ
学生会館と呼ばれる 部室棟2階に サイクリングクラブの部室があった。
部室というのは 維持するために いろいろ しないといけない。(入れ替わりもあるので)
サイクリングクラブは 1クラブで 1部室なのだが 実績のないクラブは 2~3クラブで1室というのが多かった。
うちのクラブは 先輩方の活動と実績が認められていた?ので 部室は安泰でした。
なかでも 文化活動として 写真展をよくしました。
旅先の写真を 引き伸ばしてパネルにして展示。
写真好きの先輩と 私と 暇を持て余した連中で 部室を暗室にして夜中に写真を引き伸ばして焼き
ました。 現像すると 心霊写真風の画像が出てきて 皆で 「エキトプラズマじゃ~~」って
大騒ぎしたものです。
今でも 定着液の酸っぱい臭いが思い出されて 鼻の奥がムズムズします。
他には 他大学との合同イベントや 一般人向けのイベント、サイクル運動会 サイクルオリエンテーリング 学祭の行事参加など。
中でも 部独自の活動が 実績評価に一番大事で 数年に一回 大きなイベントをしていました。
「神戸~山口ノンストップラン」 毎年の「敦賀~神戸250Km耐久ラン」 「紀伊半島一周ラン」 など 自転車を使ったイベント活動です。
私が2回生になった時 一度挑戦したかった 富士登山ラン をクラブイベントですることになりました。 下見は 私と 高校で登山部だった後輩と2人で 山開き前に登りました。途中雪が降ってとても寒かったです。 本番まで 1ヶ月ほど アタック隊(自転車担いで登る隊員)と サポート隊にわかれて体力トレーニングしたりしました。 この様子は 朝日新聞や神戸新聞にも取り上げてもらいました。
そして 本番(山開き前です)
アタック隊は 電車で御殿場駅まで行き、そこからは 自走でスバルラインを 富士山5合目まで走ります。 それから 高山に馴れるために 1泊しました。
ここで バスで登ってきた サポート隊と合流です。
翌日 快晴の朝をむかえました。 円陣をくんで エール
山頂めざして 登り始めます。
7合目くらいまでは わりと余裕でしたが 8合目 9合目になると 息が上がってしまいます。
山頂ちかくになると 3分動いて 3分休み・・・ やっとの思いで 山頂の御鉢にでました。 剣が峰には 御鉢巡りで行きます。 まだ このころにはレーダードームがありました。剣が峰に立つと 伊豆半島がくっきり見えました。さすがに富士山 独立峰ですから ながめがいいです~
遠くに残雪の日本アルプスの峰々が 神々しく輝いています。
御鉢巡りで 剣が峰をめざす 後ろは噴火口 左端が私です
サポート隊は 8合目でアタック隊と別れ 山頂まで登らず 引き返して 5合目へ向かったのでした。そして バスに乗って 御殿場で再合流の予定でした。 一方われわれ アタック隊は 剣が峰から ブルドーザー道を下り御殿場に向かいます。
ブルドーザー道は 砂(軽石)が深くて タイヤが20cmくらい沈みこんでしまいます。
この当時 まだ マウンテンバイクは 一般には浸透していませんし 私たちも この時は 全員ガードを外した ランドナー (私は クライマー)タイヤは 650x38B か 42B でした。
沈み込んだ車輪を スキーのように滑らせてジグザグに降りて行くのですが 時々 砂にはまり込んで
前転してすっ飛びました。 着地しても 砂なので 痛くないものですから 皆面白がって すっ飛びならが 下りました。宝永山を横に見ながら下ったの景色は頭に焼き付いています。
自衛隊基地の横を通り あっという間に下って 集合場所の御殿場に到着しました。
登りは 2日かかりましたが 下りは 2時間半ほどでした。
アタック隊にトラブル?
後で聞いて 「なんじゃそりゃ~」って 笑い話になるのですが・・・
当時は 携帯電話はありませんから 一応 連絡用に トランシーバーを用意しておいたのです。
部員同士が トランシーバーで おしゃべりしすぎて 電池切れ
おまけに 学校本部にいた部員と連絡しあって アタック隊の 御殿場到着を知らせてあったのに
5合目に残って サポーター隊の中継をする連中が いたずら電話を頻繁に掛けたらしくて 神戸の本部にいた部員が呆れて帰ってしまうことに。
まずいことに アタック隊の御殿場到着の連絡が 富士5合目に着いたサポーター隊に伝わらないまま時間が過ぎてしまいました。
天候が悪くなってきたのもあり サポーター隊の連中が アタック隊の心配を始めてしまいます。
一方我々は 本部に到着の連絡をしたこともあり 御殿場駅でアイスを食ったりして のんびり皆の帰りを待っていたのでした。
サポーター隊の連中が 幻聴を聞く・・・
まずいことは 重なります。
女性部員が 「アタック隊の声が聞こえた」とか いい出したそうで・・・ちょっとしたパニックになったようです。
山は やはり 舐めてはいかんです。 富士山も舐めてはいけません。
登山経験者が わたしと下見した後輩君くらいしかいなかったのもまずいです。
本部にいた部員が 何かの拍子で 連絡がつくまで このパニックは続いたようです。
なんも知らない 私ら5人は待てど暮らせど 連中が帰ってこないので・・・
本部に再連絡 誰も出ない・・・ 自宅に電話すると なんと 本部にいるはずの部員がでてきて 顛末がわかったという次第です。
なんだか知らないうちに とんでもないことになりました・・・とさ!
サポーター隊と再会した時は どえりゃ~ことになりました。
今でも 当時のクラブ員が集まると この話で 大いに笑います。
富士山は いまでは 世界自然遺産 じゃなくて なぜか 文化遺産ですから 自転車担いでの富士登山は ちょっと無理でしょう。
バイクで登ったって話もありますが こちらは 問題外ですね。
こうして2日間で 獲得標高差 7200m!の 富士登山イベントは終了しました。
携帯電話のなかったころは ほんとに ちょっとしたことでも 行き違いがありましたね~
そう言えば 30年前 わたしも のちに妻となる彼女とのデートで 待ち合わせ場所で2時間も待たされたことがありました。 携帯電話のある今じゃ 考えられない ことです。
心配して 電話するのですが 全然誰も出なくて・・・
やっとのことで 彼女の家に電話がつながり お母さんが出て「○○は 部屋で寝てますよ~」って!
「えっ・・・・」? ?????が続くよ どこまでも~
「とりあえず 無事でよかった~」って。
やってくれますね~ うちの嫁は! (このあと 平謝りの嫁さんでした)
ケンカ別れしなかったので 今も一緒にくらしています。
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